なによりも自分のためのブログ

これまでに考えてきたこと、ふと思いついたことを発信していきます。*ブログ移転しました!http://blog.livedoor.jp/beginner_challenger/

相手の価値観を尊重する

自分とは違う価値観を持った人と付き合っていくというのは本当に難しいな、と思います。自分と全く同じ人間がいない以上、全く同じ価値観を持つ人はいないと思います。しかし、かといって全く同じ価値観、あるいはかなり近い価値観の人としか上手くやっていけないのか、と言えばそれは違うはずです。

 

「自分とは異なる相手の価値観を尊重する」

 

これができればうまくやっていけるはずだと僕は思うのです。

しかし、これを実践することはなかなか難しいのかもしれません。

相手の生い立ちや過去の経験、挫折、成功、一つ一つから丁寧に現在の相手の価値観を分析していく必要があります。また、それとともに、相手のその価値観形成のプロセスを自分自身で追体験をし、同じような気持になり、強く共感できなければ本当に意味では相手の価値観は理解できません。

 

しかし、強い共感のレベルまで達するのは、経験ことなる以上無理なケースも多いと考えられます。しかし、そこまで理解しようとする姿勢をもち、自分の理解の限界にを認識した上で相手の価値観と向き合うことが大切だと思います。

そうすれば、自分とは違うというだけで、相手の価値観を否定したり、馬鹿にしたりはできないはずです。一方的に、他の人と同じだと決めつけることはできないはずです。表向きは同じに思えても、それを形成してきたプロセスが違うので、微妙に違っているはずです。

 

異なる価値観との向き合い方は今後も考えていく必要があるな、と感じています。

以上

感情への対応の難しさ

感情に対して、どう向き合うかというのは本当に難しい問題だと思います。

嬉しさや楽しさとったポジティブな感情であれば、むしろ色々なことに好奇心を持って取り組んだり、人にやさしく接することができたりと、良い効果が大きいかと思います。ポジティブな感情は前向きになる原動力とも言えます。

 

 

しかし、悲しさ、嫉妬、悔しさといったネガティブな感情であるとなかなかそれを前向きな方向に進む原動力とすることは難しいです。

悲しさという感情で頭がいっぱいになってしまうと、冷静に目の前で起きていることを把握できなかったリ、視野が狭くなり、短絡的な思考に陥ってしまい不必要に自分や他人を責めてしまったりします。そしてそんな自分に対して嫌気がさし、どんどんと気分が滅入ってしまうのです。

 

 

こうした場合には、「書き起こす」ことが重要であると思います。

「ストレスは、健康に悪いと思っている人にとっては悪い」という研究結果を発表したスタンフォード大学教授、ケリー・マクゴニガルさんによれば、出来事や感情を「書き起こす」こと自体に一定の心理的なヒーリング効果があるそうです。

実践してみると、徐々に自分が短絡的になっていることに自覚し、冷静さを徐々に取り戻していくことを実感しました。

「書くこと」の重要さを再確認しました。 

スタンフォードの心理学講義 人生がうまくいくシンプルなルール

スタンフォードの心理学講義 人生がうまくいくシンプルなルール

 

 以上

過去から現在へ2

僕の生まれた家は静かな町にあった。ちょっとした民家の集まった地域と水田が一面に広がる地域が組み合わさってできたような町だった。田植えの時期には全ての水田に水が張られる。夕日が山に沈むころには張られた水に真っ赤な光が反射してとても美しい景色だった。夜は車が走る音もなく、夏になるとコオロギとカエルの鳴き声だけが響いていた。車で数十分もかかる最寄り駅を走る電車の淡々と走る音が聞こえてくるほど、静かな夜だった。窓を開けて流れるように吹く夜風を浴びながら眠りに落ちていくのが好きだった。

 

 

 

だからと言って、僕の幼少時代が平穏なものであったかと言えば決して違う。

 

僕が物心がつくころにはすでに歯車が狂っていたみたいだった。

突然その時期はやってくる。

母親はヒステリックな声をあげて叫び、怒りを家庭内でぶちまける。

祖父母はそれに呼応するように声を荒げる。

罵声が飛び交い、僕はその時期になるとひたすらそれらに耐えるしかない。

僕にはどうすることもできないのだ。

 

 

僕の生まれた家ではいわゆる嫁姑問題が生じていた。

いつからなのか、どうしてはじまったのかは僕はよく知らない。

どうやら昔、祖母が母をなじるなど、今でいうところのモラハラのようなことをしていたらしい。それに耐えかねて母は祖母や祖父に対して強い不信感と嫌悪感を抱くようになっていき、時折怒りを爆発させるのであった。

経緯はどうであれ、とにかく僕にとっては生まれたときからこうした状況が当たり前のようになっていた。

 

その時はいつも突然やって来るように思えた。

 

床が汚れていたり、何かが壊れていたりすると、母は祖父母の仕業に違いないと断罪し、嫌悪感でいっぱいの顔をしてその旨を僕に伝えてきたものだ。

これが前触れだ。

そして祖父母への追求が始まる。

徐々にエスカレートしていき、罵声が飛び交うようになる。

包丁を持ち出すこともあったし、警察が来ることもあった。

父も間に入って止めようとするがもう無理だ。

数時間はこうした交戦状態が続く。

繰り返しこうした争いが起こるので、僕は大人たち、特に母親の顔色や雰囲気に過度に敏感になっていった。

いざ、交戦が始まれば僕はただただ、耐えるしかない。

どうしてこんな怖くて、居場所がなくて、孤独な感情を持たなければならないのかと思った。自分が何か悪いことをしたからなのではないかと何度も疑った。「いい子」にしていようと何度も自分に言い聞かせたしかし、人並み以上に「いい子」だったと思う。

でも何も変わらなかった。

誰も僕のこの気持ちを、悲しさを、無力感に気づいてくれはしないのだと思った。

誰も僕のことなんて気にしていないんだと思った。

僕の気持ちを理解しようとしてくれる人もいないのだろうと思った。

妹がいたが、二人で静かに、耐えるほかなかった。

何とかこんな家を変えてほしいと強く願った。

神様がいるなら助けてほしいと、願った。

寝て起きたら違う家の子どもになっていないだろうかとも思った。

 

 

 

 

だけど、何一つとして

どんなに待っても

どんなに願っても

 

変わらなかった。

 

 

続く

過去から現在へ1

僕は田舎に生まれた。川や田んぼ、山が身近にあるところだった。時間がゆっくりと流れていき、毎日が淡々とすすんでいく、そんな場所だったと思う。都会生まれの人たちがうらやむスローライフというものなのかもしれない。故郷を離れてもう何年もたつ。本来ならば、地元を懐かしむのが「ふつう」なのかもしれない。

 

だが、僕は違う。

 

思い出の中の僕の毎日は、とても孤独で、苦しくて、無力感でいっぱいで、自分の存在意義を見失うことの繰り返しだった。それでも生きていくためには、少しずつ、失っていくものがあった。自分の感情がよくわからなくなっていった。本当の自分はどれなのか、本当の自分の気持ちはどれなのか、わからなくなっていった。いろいろなコミュニティに参加しても、どの自分もなんとなく偽物な気がしてならなかった。

 

 

こうした過去の負の遺産を少しずつ清算していかなければならないと思う。少しずつ、徐々に、記憶を掘り起こしながら見つめ直していこうと思う。

続く

高速化こそが質を高める

速さと質は対極の概念というのが一般的な考えであると思う。速さを重視すれば、ミスが多くなって質が低下する、質を重視すれば、細部まで丁寧に配慮しなければならないためどうしても時間がかかる、というものだ。しかし、本当にそうであろうか。今回は速さと質の選択のジレンマに対して「やる気」という切り口から考察したい。

 

 

人は「前進」を感じるとやる気が高まる

仕事であれ、勉強であれ、趣味であれ、自分自身の進歩を感じる瞬間がある。読書をとりあげると、数百ページに及ぶ書籍を読み進めていくうちに、あるとき自分がいつのまにか半分以上を読み終えていることにふと気付く。読み進めてめくったページ数の多さ、その厚さを見て、自分が「前に進んでいる感覚」を得る。すると、ある種の達成感を得て、本を読むことに対するやる気が高まり、その後の読書を続ける原動力となる。このように、本の内容の理解度とは別に単に「前に進んでいる感覚」、「こなしている感覚」といった「前進感」がやる気を高めてくれる。

 

 

高速化により「前進感」を感じることができる

拙速という言葉がある。速いが質は低いということだ。そしてこれはネガティブな捉え方をされていると思う。しかし、作業をしている本人は「前進感」を感じている。人は、ただ何かを進めているという感覚を味わうだけでやる気が出てくる。速く作業が進めば進むほど、その結果できた資料の多さや考えたことの多さを感じることができる。もちろんそれらのアウトプットの質は必ずしも高くはないであろう。だが、やる気があればその作業や仕事、勉強などを継続してやろうという心理も働きやすくなる。

 

 

拙速の継続が質を担保する

質の低さという問題点は、継続や反復によって解決する。とりあえずはあらくても会議の資料を一通り最後まで作ってみる。速く作れば時間的余裕もあるので、もう一度その修正や改善に多く時間を割くことができる。必要なデータや論理の欠陥に気付くことができる。あるいはまた最初から考え直すことも可能であろう。一度、一通りやっておけば、どんなところに気を付ければよいかも経験的にわかるため、やり直しても一回目以上のスピード感で二回目をやり終えることができる。徐々により質の高い成果物へと変えていくことができる。このように高速化による質の低さという問題点は継続と反復によって改善される。この原動力となる前進感を生み出すのが高速化であり、速さなのだ。

 

 

 「速さは全てを解決する」

こうした高速化による生産性の向上の具体的な取り組みについて以下の書籍で紹介されている。メモ書き、単語登録や仮説思考などの強力なツールを最大限に生かすというものだ。抽象論や単なるマインドセットの解説に終わらず、具体的に読者がとるべき行動まで言及されている。「単に読んだだけ」には終わらない点が素晴らしいと思うのでぜひ読んでいただければ、と思う。

速さは全てを解決する---『ゼロ秒思考』の仕事術

速さは全てを解決する---『ゼロ秒思考』の仕事術

 

 

 

まとめ

高速化によって生まれる前進感がやる気を高める。そして、そのやる気さえあれば継続的に成果物の改善作業に取り組むことができ、徐々に質の向上を可能にする。速さと質は対立するものでなく、両立可能なものなのだ。

 以上

「リーダーシップ」を再考する

「リーダーシップ」の重要性が語られて久しい。しかし、この言葉に対して私は壁を感じてきた。崇高で、先天的で、限定的なものに思えてならなかった。大学、企業、そして日常生活においても求められる「リーダーシップ」について考えてみたい。

「リーダーシップ」の必要性

ビジネスの世界では、自分の新しいアイディアや構想、切り口を単に自分の中だけで温めておくのではなく周囲に発信していかなければ企業や社会に貢献できないし、自分の組織内での存在意義も薄れていってしまう。アカデミックな世界であっても、学会ではただ他者の意見を聴くだけでなくそれを踏まえて自分の意見を主張しなければその知的活動に貢献したことにはならない。したがって、こうした発信していく姿勢が社会の一員としての役割を果たす上で重要であり、その基礎となるのが「リーダーシップ」である。

「リーダーシップ」は一部の人が持つものなのか

一般的には「リーダーシップ」はリーダーが持つべきものであるとされる。広辞苑では「リーダーシップ」は「指導者たる地位または任務、指導権」や「指導者として資質、能力、力量、統率力」と定義されている。「リーダーシップ」を持つ存在として想像されるのは、総理大臣や社長や部活の部長といった組織の中で最も役職の高い人や徳川家康キング牧師のような偉人であると思う。つまり、ごく一部の人が持つべき資質や能力として、あるいは才能として捉えられているのが実状であると思われる。

スポーツマンシップとの比較からの「リーダーシップ」の考察

「リーダーシップ」を議論するにあたってスポーツマンシップを例に挙げて注目したい。スポーツマンとは、プロ野球選手やオリンピックに出場する選手のようなトップアスリートと呼ばれる人々である。しかし、スポーツマンシップは彼らだけが持つもの、持つことを求められるものではない。小学校の運動会や中学の部活の大会でもスポーツマンシップに則り正々堂々と試合や競技に臨むことを誓う。スポーツをするにあたって誰しもが持つことを必要とされ、そして実際に持つことができるものである。競技相手を尊重して卑怯な真似をしないという心がけであり、誰しもが持っている倫理観である。「リーダーシップ」も本来、一部の人間が持つ神格化されたものではなく、誰しもがもともと持っているものであると言える。

リーダーシップは自分の意志に従い行動すること

身近な事例から「リーダーシップ」を考察したい。私は高校時代陸上部に所属していた。筋力不足に問題意識を抱えていたことから2年性の秋ごろから自主的に筋力トレーニングを行う朝練を始めた。するとそれを知った友人も同様に問題意識を抱えていたということで一緒に朝練に参加するようになった。その人数は徐々に増えて後輩も、どこから聞いたのか他の部活の者まで参加するようになった。私の意志やとった行動に共感して人々が集まった、これこそが「リーダーシップ」が発揮された事例であると考える。つまり、「リーダーシップ」とは「自分の意志に従って行動すること」であると私は考える。

リーダーシップの課題とフォロワーシップ

自分の思ったことや考えたことを行動に移してもリーダーシップが発揮されない場合もある。2016年に起きた衝撃的な事件の一つである、神奈川県相模原市障がい者施設襲撃事件を取りあげたい。容疑者は「障がい者は社会に不用だ」という独特の持論を主張して残酷な犯行に及んだ。これは自らの意志に従って行動した事例であるがこれに共感する者はいないし、いてはならない。ここから皆の価値観や倫理観に合った意志と行動でなければ共感は得られずにリーダーシップは発揮されないことが分かる。

しかし、共感されるべきではないものに共感がされてリーダーシップが誤って発揮された事例もある。ナチスや太平洋戦争へと進んだ当時の日本政府である。苦しい経済環境から誤った意志や思想に共感して人々は戦争へと突き進んだ。リーダーシップが有効に機能するにはそれを監視して共感すべきものを見極める周囲の「フォロワーシップ」も必要であることが分かる。リーダーシップとフォロワーシップは補完し合うものであり、行動する人と監視する人の持つべきものであるため誰しもが持つべきものであり場面によって使い分ける必要がある。

まとめ

社会への貢献という点から自分の意見を発信するための心持が必要でありこれをリーダーシップと定義した。リーダーシップには共感を誘う志あるものではならないことを指摘し、リーダーシップを暴走させないためには監視して見極めを行う周囲のフォロワーシップが重要であることを指摘した。

以上

「競争心」とは何か

「競争心」が強い人にしばしば出会う。「自信を持ちすぎている人」という印象を彼らに抱く人も多いと思う。他人の意見を頭ごなしに否定して自分の主張を周囲に認めさせようとする人たちだ。しかし、自信があるならば精神的に余裕があるはずであり他者の意見を聞き入れることもできるはずである。こうした身近に感じるものの、何かと問われれば答えかねる「競争心」に対して考察を深めたいと思う。

「競争心」とは何か

まずは「競争心」の定義から確認したい。デジタル大辞泉は「他に張り合って勝ちたいと思う気持ち。競争意識」と定義している。広辞苑第 6 版や旺文社国語辞典第 11 版でも同様であった。また、英語では competitive spirit と訳される。Competitive は「determined or trying very hard to be more successful than other people or business(LONGMAN Dictionary of Contemporary English NEW EDITION)」と説明される。一方で類似した言葉として「向上心」がある。こちらは「より優れた状態を目指そうとする心(広辞苑第 6 版)」や「現在の状態に満足せず、よりすぐれたもの、より高いものを目ざして努力する心(デジタル大辞泉)」と定義される。向上心は自己完結可能な精神である。他者に勝るかどうかとは無関係に自分自身が現状に満足できなければさらに高いものを目指す。このように競争心は比較対象となる他者の存在を前提としてそれに勝ろうとする精神であり、他者依存的な精神である。

企業間での競争心が招いた弊害

ビジネスの世界は競争の世界と捉えることができる。競合他社よりも優れた製品を提供できなければ顧客は自社から離れていき業績は低下し、最悪倒産してしまう。競争心と切り離して考えられないのがこの世界だと思う。こうした企業間の競争の具体例として携帯電話業界をとりあげてみたい。現在ではスマートフォンが主流となりアップルやサムスンの製品が市場で存在感を示している。かつての折り畳み可能なタイプやドコモの i モードで一世を風靡した日本のフィーチャーフォン、いわゆるガラケーは淘汰されてしまったと言える。単に通話が可能な端末であった携帯電話は、富士通やシャープ、NECパナソニックなどの大企業が互いに負けまいと性能向上や新機能追加に明け暮れた。その結果、簡単なモノクロ画面でのメールしか高々できなかった携帯電話は飛躍的に便利になり、ワンセグの登場でテレビすら必要となくなるのではという意見も出るようになった。企業間の競争心がこの市場の成長をもたらしたと言える。しかし、一方で肝心の顧客を置いてけぼりにしたという問題もあった。あまりにも多くの機能があるために新機種変更すればそれに適応するには時間がかかったし、使い道のわからない機能も多くあったと思う。結果として、直観的な操作が可能でデザイン性に優れた iphone をはじめとするスマートフォンが登場するとこぞってユーザーはガラケーから乗り換えた。ここで注目したいのは競争心にかられた結果、当初の目的であった「顧客の獲得」のために重要なユーザーの立場に立つことがすっかり忘れ去られていたことである。また、「性能や機能で競合に勝てれば顧客は獲得できる」という推論が無意識になされ、それを批判的に議論することができなくなっていたと考えられる。このように競争心は前提や不確かな推論を絶対的な「真理」であると錯覚させて思考を短絡的なものにしてしまう恐れがある。そして目的達成のために重要な視点を見失せてしまう。

スポーツは他者との競争なのか

2016 年はリオ五輪開催の年であった。スポーツの祭典はまさに「競争の祭典」である。各選手は他の選手やチームに勝ち、メダルの獲得を目指し、実際に多くの選手がメダルを獲得した。ならばアスリートとは競争心にあふれた人たちであると考えられる。他者に勝とうという強い意志が素晴らしい記録や戦績をもたらすように思われる。しかし、それは本当であろうか。必ずしもそうとは言い切れないと思うのだ。インターハイや国体に出場するような極めて高い成果を残した陸上選手をここではとりあげたい。その選手が「試合本番でいい記録をだすには」というテーマで自身の考えを記述していたものを拝見したことがある。その中には、これまでの練習を振り返る、足の運び方や試合本番のイメージを何度もシミュレーションする、もちろんウォーミングアップの仕方などの技術的なことも書かれていた。相手に勝つ、や闘争心を燃やすといった競争心に関する主張は全くなかったと記憶している。むしろ「他選手を意識せずに練習通り自分の走りに集中する」ことの重要性を指摘していた。一方で上手くいかなかった試合の原因は「他選手を意識しすぎた結果力みすぎた」としていた。つまり、他者に関係なく自分がやるべきこと集中することこそが重要であり、試合中や直前では他者を強く意識する競争心は高い成果をだすことの障害となり得るのだ。

競争の効果

競争心は目的達成を阻んだり成果をだすための障害となったりするというネガティブな面を指摘した。一方で、競争を導入して競争心を高めることで困難を克服した事例も存在する。社員のモチベーションが低く営業成績が低迷していた企業の営業部が、出来高制や月別のランキングの公表を実施して競争の仕組みを導入した結果やる気が高まり業績が改善したという事例はしばしば聞く。また、私の川清掃イベント企画時の経験を挙げると、義務的で仕方なくやることが多い川沿いのゴミ拾いに、ごみの種類や大きさによってポイント付けをしてチームごとにその点数を競うという仕組みを取り入れることで清掃参加者のモチベーションを高めて短時間で清掃を終了できた。しかし、こうした事例から競争心は必要不可欠なものであるという結論付けはできないと思う。これらの事例は、社員や参加者のモチベーションが低かった、という前提がある。どうせ頑張っても何も変わらない、達成感はない、といった無気力状態にあった。そこに競争という刺激が加わることで変化をもたらし、きっかけとなったにすぎないと考える。もし、過度に競争心を高めれば、ポイントの低いゴミは無視したり営業報告をごまかしたりして本来の目的を見失う。よって、競争はやる気を高めるきっかけとしては良い効果をもたらすものの、さらに高い成果を求める段階や状況ではむしろ悪影響を及ぼすと考えられる。

競争心はどこから生じるか

競争心は過度にあると目的を見失わせたり成果を低下させたりしてしまう。企業であれば企業存続のためという理由から競争に走るのは納得できる。それでは日常生活や就職活動などで出会う人はなぜ強い競争心を持っているのであろうか。そこには人間の社会的な側面が関係していると思う。マズローが指摘しているように人間には他者から認められたいという承認欲求を持っている。この欲求を満たすことで自分の存在意義を確かめることができるからだ。自分がいる意味を見出すことができるからだ。しかし、承認欲求は他者が認めてくれなければ満たされることはなく、他者の能力や価値観に依存する。分かりにくいことや曖昧なことを他者は評価し辛く認められにくい。すると、承認欲求の強い人はわかりやすいものに流れる。勝敗は明確に分かれてわかりやすい。テストの点数や年収、地位や肩書ははっきりと序列がついて勝ち負けが明確なのでわかりやすい。皆が認めやすい。こうして自分の存在意義を確かめるために競争や勝敗にこだわり競争心が高くなってしまうと考えられる。

競争心が高く柔軟性がない人にどう対応するか

以上の考察を踏まえると、競争心は自分の中の前提を絶対的なものとみなす原因となり視野を狭めてしまう恐れがある。また、他者を意識するあまり自分がするべきことに集中できなくなり自分のパフォーマンスを低下させてしまうこともある。そしてこの競争心は自分の存在意義を確かめたい、他者から認められたいという欲求を満たすために生じており、それが強いほど勝ち負けにこだわるようになるため他人を頭ごなしに否定するようになり、過度に競争心を強めてしまう。こうした競争心が強いために柔軟性が欠ける人に対してはまずは自分が敵意を持っておらず十分相手を尊重しているという姿勢を示す必要があると考えられる。そうすることで相手の存在意義を認めた上で指摘や建設的な批判を行っていくことが重要となると思う。

以上