なによりも自分のためのブログ

これまでに考えてきたこと、ふと思いついたことを発信していきます。*ブログ移転しました!http://blog.livedoor.jp/beginner_challenger/

ポジティブな人と会う大切さ

自信がなくなったり、自分を見失ったときにポジティブな人と会って話すことは大切だなあと思います。

 

ポジティブな人というのは、単に元気でテンションの高い人や明るい人のことではありません。

 

自分の信念や哲学を持っていて、今の自分と将来の目標とする自分を比べて、今やるべきことを設定できる。そして、設定したやるべきことを、価値ある大切なこととして地道に実践していける人のことであると考えます。

 

こうした人たちは、充実感やりりがいを感じていることが多いため、結果として「いつも明るい人」や「元気な人」として見られることも多いかと思いますがそこが本質ではないと思います。

自分を信じられなくなった時にこうしたポジティブな人と会って話すと、的確なアドバイスをもらえることもありますし、自然となくしていた前向きさを取り戻すことができます。

 

何事も地道に努力をしても上手くいかないことは当然あります。ポジティブな人たちも、もちろん多くの挫折を経験しているはずです。多くの成功や挫折の経験から、スキルなどの技術的なアドバイスや励ましの言葉をかけてくれます。

辛い挫折を乗り越えた経験があり、そのときの充実感や達成感をしっているので、彼らは今の自分を信じて、やるべきことをこなしていくことができます。辛い今をまた乗り越えられるはずだと信じることができます。そうした着実に前進していく姿は、自然と周囲の人に伝染していき、ネガティブになりつつある人が再び自分を信じることができるようにもしてくれます。

 

 

周囲に影響を与え、周囲からも影響を与えられる。こうした人間の社会的な一面が、これまでも人類を前進させつづけてくれたのであり、今日の豊かな社会があるのだと思います。

 

以上

相手の価値観を尊重する

自分とは違う価値観を持った人と付き合っていくというのは本当に難しいな、と思います。自分と全く同じ人間がいない以上、全く同じ価値観を持つ人はいないと思います。しかし、かといって全く同じ価値観、あるいはかなり近い価値観の人としか上手くやっていけないのか、と言えばそれは違うはずです。

 

「自分とは異なる相手の価値観を尊重する」

 

これができればうまくやっていけるはずだと僕は思うのです。

しかし、これを実践することはなかなか難しいのかもしれません。

相手の生い立ちや過去の経験、挫折、成功、一つ一つから丁寧に現在の相手の価値観を分析していく必要があります。また、それとともに、相手のその価値観形成のプロセスを自分自身で追体験をし、同じような気持になり、強く共感できなければ本当に意味では相手の価値観は理解できません。

 

しかし、強い共感のレベルまで達するのは、経験ことなる以上無理なケースも多いと考えられます。しかし、そこまで理解しようとする姿勢をもち、自分の理解の限界にを認識した上で相手の価値観と向き合うことが大切だと思います。

そうすれば、自分とは違うというだけで、相手の価値観を否定したり、馬鹿にしたりはできないはずです。一方的に、他の人と同じだと決めつけることはできないはずです。表向きは同じに思えても、それを形成してきたプロセスが違うので、微妙に違っているはずです。

 

異なる価値観との向き合い方は今後も考えていく必要があるな、と感じています。

以上

感情への対応の難しさ

感情に対して、どう向き合うかというのは本当に難しい問題だと思います。

嬉しさや楽しさとったポジティブな感情であれば、むしろ色々なことに好奇心を持って取り組んだり、人にやさしく接することができたりと、良い効果が大きいかと思います。ポジティブな感情は前向きになる原動力とも言えます。

 

 

しかし、悲しさ、嫉妬、悔しさといったネガティブな感情であるとなかなかそれを前向きな方向に進む原動力とすることは難しいです。

悲しさという感情で頭がいっぱいになってしまうと、冷静に目の前で起きていることを把握できなかったリ、視野が狭くなり、短絡的な思考に陥ってしまい不必要に自分や他人を責めてしまったりします。そしてそんな自分に対して嫌気がさし、どんどんと気分が滅入ってしまうのです。

 

 

こうした場合には、「書き起こす」ことが重要であると思います。

「ストレスは、健康に悪いと思っている人にとっては悪い」という研究結果を発表したスタンフォード大学教授、ケリー・マクゴニガルさんによれば、出来事や感情を「書き起こす」こと自体に一定の心理的なヒーリング効果があるそうです。

実践してみると、徐々に自分が短絡的になっていることに自覚し、冷静さを徐々に取り戻していくことを実感しました。

「書くこと」の重要さを再確認しました。 

スタンフォードの心理学講義 人生がうまくいくシンプルなルール

スタンフォードの心理学講義 人生がうまくいくシンプルなルール

 

 以上

過去から現在へ2

僕の生まれた家は静かな町にあった。ちょっとした民家の集まった地域と水田が一面に広がる地域が組み合わさってできたような町だった。田植えの時期には全ての水田に水が張られる。夕日が山に沈むころには張られた水に真っ赤な光が反射してとても美しい景色だった。夜は車が走る音もなく、夏になるとコオロギとカエルの鳴き声だけが響いていた。車で数十分もかかる最寄り駅を走る電車の淡々と走る音が聞こえてくるほど、静かな夜だった。窓を開けて流れるように吹く夜風を浴びながら眠りに落ちていくのが好きだった。

 

 

 

だからと言って、僕の幼少時代が平穏なものであったかと言えば決して違う。

 

僕が物心がつくころにはすでに歯車が狂っていたみたいだった。

突然その時期はやってくる。

母親はヒステリックな声をあげて叫び、怒りを家庭内でぶちまける。

祖父母はそれに呼応するように声を荒げる。

罵声が飛び交い、僕はその時期になるとひたすらそれらに耐えるしかない。

僕にはどうすることもできないのだ。

 

 

僕の生まれた家ではいわゆる嫁姑問題が生じていた。

いつからなのか、どうしてはじまったのかは僕はよく知らない。

どうやら昔、祖母が母をなじるなど、今でいうところのモラハラのようなことをしていたらしい。それに耐えかねて母は祖母や祖父に対して強い不信感と嫌悪感を抱くようになっていき、時折怒りを爆発させるのであった。

経緯はどうであれ、とにかく僕にとっては生まれたときからこうした状況が当たり前のようになっていた。

 

その時はいつも突然やって来るように思えた。

 

床が汚れていたり、何かが壊れていたりすると、母は祖父母の仕業に違いないと断罪し、嫌悪感でいっぱいの顔をしてその旨を僕に伝えてきたものだ。

これが前触れだ。

そして祖父母への追求が始まる。

徐々にエスカレートしていき、罵声が飛び交うようになる。

包丁を持ち出すこともあったし、警察が来ることもあった。

父も間に入って止めようとするがもう無理だ。

数時間はこうした交戦状態が続く。

繰り返しこうした争いが起こるので、僕は大人たち、特に母親の顔色や雰囲気に過度に敏感になっていった。

いざ、交戦が始まれば僕はただただ、耐えるしかない。

どうしてこんな怖くて、居場所がなくて、孤独な感情を持たなければならないのかと思った。自分が何か悪いことをしたからなのではないかと何度も疑った。「いい子」にしていようと何度も自分に言い聞かせたしかし、人並み以上に「いい子」だったと思う。

でも何も変わらなかった。

誰も僕のこの気持ちを、悲しさを、無力感に気づいてくれはしないのだと思った。

誰も僕のことなんて気にしていないんだと思った。

僕の気持ちを理解しようとしてくれる人もいないのだろうと思った。

妹がいたが、二人で静かに、耐えるほかなかった。

何とかこんな家を変えてほしいと強く願った。

神様がいるなら助けてほしいと、願った。

寝て起きたら違う家の子どもになっていないだろうかとも思った。

 

 

 

 

だけど、何一つとして

どんなに待っても

どんなに願っても

 

変わらなかった。

 

 

続く

過去から現在へ1

僕は田舎に生まれた。川や田んぼ、山が身近にあるところだった。時間がゆっくりと流れていき、毎日が淡々とすすんでいく、そんな場所だったと思う。都会生まれの人たちがうらやむスローライフというものなのかもしれない。故郷を離れてもう何年もたつ。本来ならば、地元を懐かしむのが「ふつう」なのかもしれない。

 

だが、僕は違う。

 

思い出の中の僕の毎日は、とても孤独で、苦しくて、無力感でいっぱいで、自分の存在意義を見失うことの繰り返しだった。それでも生きていくためには、少しずつ、失っていくものがあった。自分の感情がよくわからなくなっていった。本当の自分はどれなのか、本当の自分の気持ちはどれなのか、わからなくなっていった。いろいろなコミュニティに参加しても、どの自分もなんとなく偽物な気がしてならなかった。

 

 

こうした過去の負の遺産を少しずつ清算していかなければならないと思う。少しずつ、徐々に、記憶を掘り起こしながら見つめ直していこうと思う。

続く

高速化こそが質を高める

速さと質は対極の概念というのが一般的な考えであると思う。速さを重視すれば、ミスが多くなって質が低下する、質を重視すれば、細部まで丁寧に配慮しなければならないためどうしても時間がかかる、というものだ。しかし、本当にそうであろうか。今回は速さと質の選択のジレンマに対して「やる気」という切り口から考察したい。

 

 

人は「前進」を感じるとやる気が高まる

仕事であれ、勉強であれ、趣味であれ、自分自身の進歩を感じる瞬間がある。読書をとりあげると、数百ページに及ぶ書籍を読み進めていくうちに、あるとき自分がいつのまにか半分以上を読み終えていることにふと気付く。読み進めてめくったページ数の多さ、その厚さを見て、自分が「前に進んでいる感覚」を得る。すると、ある種の達成感を得て、本を読むことに対するやる気が高まり、その後の読書を続ける原動力となる。このように、本の内容の理解度とは別に単に「前に進んでいる感覚」、「こなしている感覚」といった「前進感」がやる気を高めてくれる。

 

 

高速化により「前進感」を感じることができる

拙速という言葉がある。速いが質は低いということだ。そしてこれはネガティブな捉え方をされていると思う。しかし、作業をしている本人は「前進感」を感じている。人は、ただ何かを進めているという感覚を味わうだけでやる気が出てくる。速く作業が進めば進むほど、その結果できた資料の多さや考えたことの多さを感じることができる。もちろんそれらのアウトプットの質は必ずしも高くはないであろう。だが、やる気があればその作業や仕事、勉強などを継続してやろうという心理も働きやすくなる。

 

 

拙速の継続が質を担保する

質の低さという問題点は、継続や反復によって解決する。とりあえずはあらくても会議の資料を一通り最後まで作ってみる。速く作れば時間的余裕もあるので、もう一度その修正や改善に多く時間を割くことができる。必要なデータや論理の欠陥に気付くことができる。あるいはまた最初から考え直すことも可能であろう。一度、一通りやっておけば、どんなところに気を付ければよいかも経験的にわかるため、やり直しても一回目以上のスピード感で二回目をやり終えることができる。徐々により質の高い成果物へと変えていくことができる。このように高速化による質の低さという問題点は継続と反復によって改善される。この原動力となる前進感を生み出すのが高速化であり、速さなのだ。

 

 

 「速さは全てを解決する」

こうした高速化による生産性の向上の具体的な取り組みについて以下の書籍で紹介されている。メモ書き、単語登録や仮説思考などの強力なツールを最大限に生かすというものだ。抽象論や単なるマインドセットの解説に終わらず、具体的に読者がとるべき行動まで言及されている。「単に読んだだけ」には終わらない点が素晴らしいと思うのでぜひ読んでいただければ、と思う。

速さは全てを解決する---『ゼロ秒思考』の仕事術

速さは全てを解決する---『ゼロ秒思考』の仕事術

 

 

 

まとめ

高速化によって生まれる前進感がやる気を高める。そして、そのやる気さえあれば継続的に成果物の改善作業に取り組むことができ、徐々に質の向上を可能にする。速さと質は対立するものでなく、両立可能なものなのだ。

 以上

「リーダーシップ」を再考する

「リーダーシップ」の重要性が語られて久しい。しかし、この言葉に対して私は壁を感じてきた。崇高で、先天的で、限定的なものに思えてならなかった。大学、企業、そして日常生活においても求められる「リーダーシップ」について考えてみたい。

「リーダーシップ」の必要性

ビジネスの世界では、自分の新しいアイディアや構想、切り口を単に自分の中だけで温めておくのではなく周囲に発信していかなければ企業や社会に貢献できないし、自分の組織内での存在意義も薄れていってしまう。アカデミックな世界であっても、学会ではただ他者の意見を聴くだけでなくそれを踏まえて自分の意見を主張しなければその知的活動に貢献したことにはならない。したがって、こうした発信していく姿勢が社会の一員としての役割を果たす上で重要であり、その基礎となるのが「リーダーシップ」である。

「リーダーシップ」は一部の人が持つものなのか

一般的には「リーダーシップ」はリーダーが持つべきものであるとされる。広辞苑では「リーダーシップ」は「指導者たる地位または任務、指導権」や「指導者として資質、能力、力量、統率力」と定義されている。「リーダーシップ」を持つ存在として想像されるのは、総理大臣や社長や部活の部長といった組織の中で最も役職の高い人や徳川家康キング牧師のような偉人であると思う。つまり、ごく一部の人が持つべき資質や能力として、あるいは才能として捉えられているのが実状であると思われる。

スポーツマンシップとの比較からの「リーダーシップ」の考察

「リーダーシップ」を議論するにあたってスポーツマンシップを例に挙げて注目したい。スポーツマンとは、プロ野球選手やオリンピックに出場する選手のようなトップアスリートと呼ばれる人々である。しかし、スポーツマンシップは彼らだけが持つもの、持つことを求められるものではない。小学校の運動会や中学の部活の大会でもスポーツマンシップに則り正々堂々と試合や競技に臨むことを誓う。スポーツをするにあたって誰しもが持つことを必要とされ、そして実際に持つことができるものである。競技相手を尊重して卑怯な真似をしないという心がけであり、誰しもが持っている倫理観である。「リーダーシップ」も本来、一部の人間が持つ神格化されたものではなく、誰しもがもともと持っているものであると言える。

リーダーシップは自分の意志に従い行動すること

身近な事例から「リーダーシップ」を考察したい。私は高校時代陸上部に所属していた。筋力不足に問題意識を抱えていたことから2年性の秋ごろから自主的に筋力トレーニングを行う朝練を始めた。するとそれを知った友人も同様に問題意識を抱えていたということで一緒に朝練に参加するようになった。その人数は徐々に増えて後輩も、どこから聞いたのか他の部活の者まで参加するようになった。私の意志やとった行動に共感して人々が集まった、これこそが「リーダーシップ」が発揮された事例であると考える。つまり、「リーダーシップ」とは「自分の意志に従って行動すること」であると私は考える。

リーダーシップの課題とフォロワーシップ

自分の思ったことや考えたことを行動に移してもリーダーシップが発揮されない場合もある。2016年に起きた衝撃的な事件の一つである、神奈川県相模原市障がい者施設襲撃事件を取りあげたい。容疑者は「障がい者は社会に不用だ」という独特の持論を主張して残酷な犯行に及んだ。これは自らの意志に従って行動した事例であるがこれに共感する者はいないし、いてはならない。ここから皆の価値観や倫理観に合った意志と行動でなければ共感は得られずにリーダーシップは発揮されないことが分かる。

しかし、共感されるべきではないものに共感がされてリーダーシップが誤って発揮された事例もある。ナチスや太平洋戦争へと進んだ当時の日本政府である。苦しい経済環境から誤った意志や思想に共感して人々は戦争へと突き進んだ。リーダーシップが有効に機能するにはそれを監視して共感すべきものを見極める周囲の「フォロワーシップ」も必要であることが分かる。リーダーシップとフォロワーシップは補完し合うものであり、行動する人と監視する人の持つべきものであるため誰しもが持つべきものであり場面によって使い分ける必要がある。

まとめ

社会への貢献という点から自分の意見を発信するための心持が必要でありこれをリーダーシップと定義した。リーダーシップには共感を誘う志あるものではならないことを指摘し、リーダーシップを暴走させないためには監視して見極めを行う周囲のフォロワーシップが重要であることを指摘した。

以上